殺すか殺されるか

私のような戦後生まれは「殺すか殺されるか」という極限状況を経験せずに暮らしている。実際にそういう経験をしていないので頭の中で考えて「加害者になるよりは被害者のほうがいい」などと単純な結論を出したりする。 

しかし多くの人間は「殺すか殺されるか」という極限状況におかれたら、おそらく「殺す」ほうを選ぶのだと思う。 だから戦争も成り立つ。


殺されそうになる


バングラデシュに来る数ヶ月前の盗難で私はiphoneを盗まれていた。それからはトルコにいたこともあって、日本でいうガラケーのような昔使っていた携帯にドイツだけで使えるSIMを入れて使っていた。トルコにいたときは、トルコさんの家業の手伝いをする日々だったので電話は必要なかった。

貴金属まで売ったのはスマホを買うためだった。仕事を受けるのにさすがにスマホなしはまずいだろうと思った。 時間もなかったので設定もせず、バングラデシュでも利用可能なSIMも見つからなかったので、着いてからSIMを買って設定すればいいと思っていた。

結局すぐに拉致されこの村に連れて来られたので、設定もしていなかった。この村についてすぐにスマホはムラーに取り上げられた。 「子どもたちが触って壊すと困るから預かるだけだ」と言ったが、もう戻ってはこないなとは思った。

ただタブレットはカバーもボロボロだったせいか取り上げられることがなかった。 WIFIさえつながればタブレットでも外部と連絡は取れる。ただWIFIはあるようだったがパスワードは教えてもらえない。オンライン状態であれば位置情報も確認ができるが、オフラインでは写真を撮るくらいしかできない。


子どもたちとはすぐに仲良くなり、その中のひとりが大人たちには内緒でWIFIのパスワードを教えてくれた。 ただ停電などでかなり不安定で一日の間に少しだけ使える程度だった。 


ムラーの母親は彼を溺愛しているようにも支配しているようにもみえた。 ムラーは弟のフセインほど賢くはなく短絡的で計画性はなかった。とにかく日本にいきたい、そのためには何でもするという感じだった。母親も、少し精神的におかしくなったムラーを日本に行かせさえすればなんとか普通の精神状態になると考えているようにも見受けられた。 


彼らがフセインの指示に従えば私の身は危ないが、ムラーだけなら何とかなると思った。 私は、配偶者ビザなどを取得しなくとも日本人の保証人がいればビザの申請ができることを説明した。 密入国で強制送還になったムラーにビザがおりないのは明らかだったが、本人はそこに頭が回るほど賢くはない。強制送還になった時に入管の係員の「5年間は日本に入国できない」という説明を「5年経てば入国できる」と能天気な解釈をするくらいだった。


バングラデシュからは不法入国や不法滞在が多いため、バングラデシュ人に対するビザの審査はかなり厳しいというのは既に調べたので知っていた。密入国歴のあるムラーにビザがおりることは100%ありえない。それでも何とかうまくビザの申請を口実に日本大使館に誘導するしか方法はない。 


フセインほど賢くはないムラーだけなら何とかなる。私はムラーに「私を騙したフセインのことは許せないが、あなたに恨みはない。私が日本へのビザの手続きをすべてしてやるからビザがおりるまではフセインとは連絡を取らないでほしい」と言うと、ムラーはあっさりと納得した。


母親も息子が日本に確実に行けると勘違いしたのか、ずいぶんと機嫌が良くなりその日はまともな昼食が用意された。


これで何とかうまくいく、と安心したが問題がでてきた。


トルコを出国してまだ2週間前後だったこともあり、チャットアプリでトルコさんとは連絡を取っていた。ただWIFIがいつもつながらるわけでないから状況を事細かに説明はできなかった。


トルコさんから「とにかく相当危険な状態にあるんだから、日本大使館に連絡するから」という連絡があった。私は「あと一日待って」と返事をした。ビザを取れるようにしてやるとムラーを騙して日本大使館に誘導するようにしたのに、変な動きをすればいくら愚鈍なムラーでも訝しがるだろう。


だが心配したトルコさんからは「もう待てないわ、大使館に連絡するから」という返信があった。大使館の若い職員の方からすぐにチャットアプリに連絡があった。ただ状況をすべて説明できるほどWIFIは安定していないし、WIFIのパスワードは内緒で子どもに教えてもらったものだ。ムラーや母親はそばにはいなかったが、食事を用意してくれている女性はいつも私の動向を監視していた。


私は大使館の職員の方にはムラーの携帯番号を伝え、とにかく電話は翌日にしてほしいと伝えた。 これは私を更なる危機をもたらす決断であると同時に、後に私が救出されるための鍵にもなった。 


私を監視していた女性は日本語も英語もできない。ただ私の様子がいつもと違うことや、覗き込んだタブレットの画面にムラーの電話番号があることで何かを察したようだった。


大使館はムラーの電話番号から場所を特定できるはずだ。 在外公館は邦人が「助けてほしい」と自ら意思表示をすれば全力で動いてくれるが、そうでなければ行動を起こすことはない。 つまり、その日の時点で場所の特定ができたとしても現地警察が動いてくれるということはほぼありえない、というのはわかっていた。


子どもからパスワードを聞いてWIFIを使って外部と連絡を取っているいることをムラーは知らなかったが、監視していた女性はそれをムラーや母親に報告しただろうということは容易に想像できた。


とにかく、翌朝すぐにビザの申請の件を理由にこちらからムラーと一緒に電話をしないといけない。大使館のほうから電話があればムラーに怪しまれる。 落ち着こう、落ち着こうと思えば思うほど焦ってきた。とりあえず大使館には話を合わせてもらわなければ、と思いメッセージを書くがWIFIはもうつながらなくなっている。 夜は毎日のように大雨だったが、その日は特にひどく停電になるほどだった。


夜はいつもはムラーの母親と一緒に何人かの子どもたちが一緒の部屋にいるのだが、その日は何故か母親だけだった。 しばらくすると母親が大雨の中を出て行ってムラーと一緒に戻ってきた。 ベンガル語で母親が何か確認するようにムラーに言い、彼女が部屋をでて外から鍵をかけた。


部屋には私とムラーだけが残された。 事態はすぐに把握できた。 母親はムラーに私を殺させようとしているのだろう。子どもたちの前ではさすがに殺せないから今日は全員別の部屋に移したのだろう。外は台風のような大雨で話し声どころか悲鳴をあげても聞こえない。 停電でWIFIどころか電気もなくどの小屋も蝋燭の灯りしかない。 


刃物を使えば血が飛び散るからだろう、ムラーはロープのような何か縄のようなものを手にしていた。


(続く)




 今日のドイツ語 ( 708 ) 

töten (テーテン)

これは英語の「kill   」で 「 殺す」という意味です。
 
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