遺品整理

トルコから戻ってくると私は雑事に翻弄されていた。 中国系カンボジア人の家を飛び出し着の身着のままでトルコに3ヶ月もいたのだから当たり前といえば当たり前だった。

ブログが荒らされ盗難事件に遭い、引越しができなくなって中国系カンボジア人の家に住むことになった時に倉庫を借りてほとんどの荷物はそこに移していた。カンボジア人の家に移る時に持って行ったのはデスクトップPCとプリンター、冬物の衣類、何冊かの本だけだった。

それでもPCとプリンターだけは取り戻さないと仕事をするにもできないと思い取り返しに行ったが、結局は取り返せなかった。 売ったのか捨てたのかはわからないが、部屋を見せてもらっても私の私物は残ってはいなかった。 その足で警察にも行ったが、3ヶ月も放っておいたのだから相手にもされなかった。


トルコで食べるものと寝るところには困らなかったとはいえ、3ヶ月間完全に無収入だった。住むところも探さなければいけないような状態でドイツに戻るというのはよく考えれば恐ろしく無謀なことだった。


3ヶ月間遊んでいたわけでも観光していたわけでもない。休んだのは週に一日、約90日間の滞在で10日前後だけだ。 ブログのカテゴリーは「死別」から「海外旅行」に変更したが記事にできるようなこともほとんどなかった。 


3ヶ月いなかったとはいえ、倉庫代、保険料、分割払いにした税金などは払わなければいけなかったし、それは翌月も翌々月もかわらない。その日からの生活を考えればバングラデシュでの仕事を「検討する」余裕などはなく、引き受けざるをえなかった。


バングラデシュ人は新婚で母国から呼び寄せた新妻は身ごもっていた。犯罪に利用されるのでは、と疑っていた私だったが身重の妻を紹介されたことで疑念は吹き飛んでいた。


ドイツに戻ってからの1週間、2日を除いて私はそのバングラデシュ人の家に滞在した。 その間にしなければならないことは山ほどあった。


借りていた大きな倉庫を解約し、スーツケースが3つ入る程度の小さな倉庫を契約した。追加料金を払って倉庫のオーナーの家を登録用の住所にさせてもらった。税理士に相談し、一括納付だった税金を分割にしていたが、それを更に支払い期間を延長して月々の支払いを減額してもらった。


税額を見ながらたった半年前まではこれだけ仕事をしていたのだと思うと複雑な気持ちだった。死別後2年半は悲嘆の中にあっても人並みの暮らしができていたのだと思うと、死別直後よりも辛さが重くのしかかってくるようだった。


盗難で鍵の弁償をしなければならなかった時、一括納付の予定だった税金を分割にしたが支払い期間を更に変更ということで税理士は私の事情を察したようで手続き費用も分割でいいと言ってくれた。


大変だったのは倉庫の移動だった。大きなものは処分するのにも時間と費用ががかかるし、すぐに売れるわけでもない。タダで引き取ってくれるひとを探すだけでも大変だった。 このとき手元にあった遺品などはほとんど手放した。ドイツには着なくなった服などを寄付するための大きなボックスが街に備えられているところが多い。 子供用、大人用などとしっかりと別れており再利用がしっかりとできるシステムが整っている。もちろん古着屋などもあるが、かなり買い叩かれるのでそれよりは寄付したほうが、と思うひとが多いようで、ボックスの前には服を入れにきたひとが数人並んでいた。


日本にいたときから使っていた時計や貴金属などもこのときほとんど手放した。 貴金属類を買い取ってくれるところは大きな通りに何軒もあった。


ただ貴金属はどんなブランドであっても金や銀、プラチナの重さでの買い取りなので期待するほどの金額にはならない。 特に真珠などは驚くほど買い叩かれる。


今思えば無理をしてでも売らずに持っていたほうがよかったと思うが、あのときは本当に切羽詰まっていた。


こうして4、5ヶ月のうちに私は仕事や住む家だけでなく、ほとんど全てを失った。 遺品はポロシャツを1枚手元に残し、ジャケットを1着倉庫にしまった。 


遺品整理というのは死別者にはハードルの高いものでなかなか手をつけることできない領域だが、私の場合は「辛くて遺品整理ができない」と言っている余裕さえなかった。


「生きなければならない」という恐怖


死別から3年、余りの辛さで死別の純粋な悲嘆の感覚さえもうわからなくなり始めていた。


人生の歯車は本当に簡単に狂う。 人間も簡単に死ぬ。 あの日、出かけなければ…と、何度思ったことだろう。 それでも人間は必ず死ぬのだから死別は避けては通れない。 受け入れるしかない。 しかし、私は避けて通れるはずのことも避けて通れなかった。


ブログが荒らされた日、徹夜などしなければ…。 あの日徹夜をしなければ朝からマックに入るということもなかった。盗難に遭うこともなかった。 盗難にあっても、クライアントの資料をバッグに入れていなければ契約を切られることもなかった。 せめてキーホルダーをパスポートと一緒にバッグの内ポケットにいれていれば…。せめて門の鍵だけでも別にしておいたら…。考えればキリがない。


死別のように大きな出来事でなくても人生の歯車は狂う。


それでも、バングラデシュでの仕事さえうまくいけばもとの生活にもどるための新たな一歩になる、そう思っていた。


辛くて辛くて死にたいと思っているのに、何故か生きるためにもがいていた。


運転中に心臓発作を起こした伴侶の隣で対向車のヘッドライトを浴びた時、あの時の感覚は「恐怖」ではなかった。 恐怖を超えた何か「無」のような感覚だった。 「死」が目の前に迫った時、人間は恐怖を超えた何かを感じるのかもしれない。


本当はあの時に死ぬのが私の運命だったのかもしれない、と思うことがよくある。 人間は運命に逆らうと苦しみが待っているような気がする。 


「何のために生きるのか」という問いに対し、どんなことがあっても揺るがない明確な答えを持っているひとはいるのだろうか。 


人類が滅亡の危機に瀕し、自分が地球上の最後のひとりの人間となっても明確な生きる意味を持ち続けることのできるひとはいるのだろうか。


死んで生き返ることはないから、死ぬことと生きることのどちらが辛いのかを比べることはできない。どんな死に方が辛いのかを比べることはできるが、それも生きている側の視点によるもので絶対的なものではない。


何千年もの間、優秀な哲学者たちが探しても誰もが納得する明確な答えを出すことのできなかった「何のためにひとは生きるのか」という問いに私などが答えを出せるはずもない。


ただ「生きなければいけない」と生きることを義務だと思いながら、或いは恐怖を感じながら生きることは何かが間違っているという気はする。


あの事故で「死」に直面したが、バングラデシュでも私は「死」に直面することになる。


心の中にある「死にたい」という思いが消えないのは、辛いからという理由もあるが、もしかしたらあまりにも「死」が身近になり過ぎてしまったからかもしれない、と思うことがある。


(続きはコチラ ↓)






 今日のドイツ語 ( 700 ) 

Haus (ハウス)

これは英語の「house 」で 「家」の意味です。
 
.。o○.。o○.。o○.。



 



ヨーロッパランキング














 
スポンサードリンク